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​塾長兼講師

​青木敏朗(あおきとしお)

​塾長紹介

 既存の数学教育に飽きたらず、様々な文献を読みつつ、パターン化された解法の暗記に頼らない独自の数学指導法を生み出す。学年最下位付近からトップになった高校生を数多く生み出してきたその驚異の指導力は、他の追随を許さない。

 英語が得意で、大学時代に難関のNBN海外派遣学生プロジェクトの試験に合格し、アメリカに留学する機会を得る。留学生時代に、NASA本部やシカゴ大学、MIT、ハーバード大学などの数多くの東部の名門大学を公式訪問。

 現在は、得意のパソコンを生かして教育へのIT技術の利用を精力的に研究している。趣味は読書と畑仕事。忙しい仕事の合間を縫って本を読んだり、野菜を作ったりするのが大の楽しみである。

私の留学生時代

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ガーン上院議員と共に

 渡米中、ワシントンの連邦議会で、ジェイク・ガーン上院議員と面会。ガーン上院議員は元空軍のパイロットで、後に連邦議会の議員として初めてスペースシャトルに搭乗された。

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ガーン上院議員のシャトル搭乗時の写真
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ガーン上院議員が搭乗したSTS-51-Dの打ち上げ
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当時のNASA副長官と共に

 ワシントン滞在中にNASAに招かれ、当時、NASAの副長官を務めていたラブレース博士に面会。当時は、スペースシャトルの実用化直前の時期で、私が持っているのはシャトルをジャンボジェットに載せて輸送している様子を撮影した写真パネルである。

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上記の写真パネル
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NASAの科学者カーン博士ご夫妻

 ワシントンでは、NASAの科学者カーン博士に自宅に招かれ、NASAの開発プロジェクトについて様々な話を聞かせていただいた。

ガーン上院議員と若き日の私

​青木塾の原点

 先日、納戸の荷物を整理をしていたら、若かりし頃の留学生時代の写真が出てきました。当時の写真を手に取りながら、懐かしい想いに浸ると同時に、何とも言えぬ深い感慨が胸に迫って来ました。なぜならば、当時、あの留学試験に合格し、奨学金を得て渡米した経験があったからこそ、今の青木塾があるからです。

 青木塾を創立したのは、まさに私がアメリカから帰国したその年のことでした。ガリ版刷りのチラシを作って自転車で一軒一軒回って配り、ベニヤ板に白ペンキを塗り、そこに黒のマジックで「青木英数教室」と書いて戸口に掲げたのが、青木塾の始まりです。建物はと言えば、トタン張りの6畳2間ほどの小屋を教室に利用し、安い会議机を幾つか並べただけの、今から見ると実に粗末なものでした。

 それから早30有余年が経ちます。ここまでやってこられたのは、ひとえに地域の皆さんの熱い支持や多くの卒業生たちの頑張りがあったからこそです。本当に心から感謝の思いで一杯です。そんな様々な人によって支えられたこの青木塾や、塾を率いてきた私自身のことをもっと良く知ってもらうために、当時のことを振り返りつつ、今から私が歩んできた人生を少し語ってみたいと思います。


 私が子供の頃、我が家には十分な経済力がなかったため、既に高校1年生の頃から、家庭教師などのアルバイトをして、参考書や問題集を買う費用に充てておりました。牛乳配達や新聞配達などの仕事も経験しましたし、夏休みなど長期の休みには、鉄工所で鉄骨にペンキを塗るといった仕事もやりました。生活がこんな状況ですから、当時の私は、いつも高校卒業後、どうやって自分の人生を切り開いていこうかと、毎日、そればかり考えておりました。何しろ大学に進学するにしても、親からの支援は全く期待できなかったのですから。

 財産も何もない家に育った私にとって、人生を切り拓くために残された唯一の手段は勉強することだけでした。ですから、バイトに時間を取られながらも、勉強は本当に一生懸命やりました。高校は松阪から電車に乗って隣の市にある伊勢高に通っていたのですが、入学したその日から、電車の中で1万語制覇を目指して英単語を覚え始めました。

 とはいえ、高校の勉強自体は私にとって全くつまらないものでした。数学を習った先生は、「○○式数学」の参考書のやり方をただなぞるだけで、いつも「○○には、こう書いてあります」としか言わないような先生で、若く生意気盛りの私は、「こんなのは本当の数学じゃない」と反発し、先生の授業を聞くのを止め、授業中はもっぱら、教科書に載っている数学の定理や公式をノートに証明することに専念しました。

 英語の授業も、ただ細かな知識を覚えさせられるだけで、全く心に響くことのないものでした。死んだ英語ではない、生き生きとした本物の英語を学びたいと思った私は、よく授業をサボっては、伊勢駅の近くにあった洋画専門の映画館に通い、何度も同じ映画を繰り返し見て、気に入った表現をノートに書き留めたりしていました。(幸いなことに、当時は、入れ替えなどというものはなかったのです。)

 土曜日の午後は「外人ハント」と称し、伊勢神宮に出向き、観光に訪れていた外国人達に片っ端から May I have a chance to speak with you? などと声を掛けては、英会話の実践練習に励みました。

 更に、 アルバイトで稼いだお金で短波受信機を買って、自宅の屋根に長いアンテナ線を張り、当時、FEN(Far East Network)と呼ばれていた米軍の短波放送を聴いて、英語のリスニング練習を行いました。

 あれは高2の時です。ある時、学校に留学試験の掲示が張り出されていました。British Councilが3年間、無償で日本の高校生をイギリスで勉強させてくれるというのです。これはチャンスとばかり、早速、応募したのですが、県の書類審査には合格したものの、東京の岩波ホールで行われた試験では見事に不合格になりました。全国で5名の合格者という狭き門は、当時の私には力の及ばぬものだったのです。

 ただ、留学試験を目指して懸命に勉強したこともあって、高2の終わり頃には、英語のペーパーバックスを読める程度にまで英語が分かるようになっていました。ちなみに、その時、初めて読んだ洋書は、サマーセット・モームの「月と6ペンス」でした。

 その後、家庭教師と某塾の講師を掛け持ちすることで学費を捻出し、何とか地元の国立大学に入って大学生活を始めたのですが、一般の学生のようにクラブやサークル活動には一切参加出来ず、授業が済むととんぼ返りで松阪に戻り、夜9時まで塾の講師を務め、その後、夕食を途中の食堂で済ませ、深夜の12時まで家庭教師をするという毎日の連続でした。

 そんなある時、某新聞の夕刊にNBN海外派遣学生募集の記事が掲載されているのに母が気づき、私に教えてくれました。「よしっ、今度こそ」と思った私は、すぐに応募書類を整え、合格の決め手となるであろう英会話力をブラッシュアップするために、クラークの「アメリカ口語教本」というテキストとそのカセットテープ教材を初級、中級、上級用の全てを揃え、練習に明け暮れる毎日を送り始めました。

 選抜試験は書類の出願から数ヶ月後の初夏の頃だったと思います。名古屋のNBN本社で、社長をはじめとする多数の重役の居並ぶ前で面接試験を受け、更にアメリカ大使館の関連機関であるアメリカン・センターのレイ・マクガニガル館長らによる英語の面接試験、そして筆記試験と、書類選考から数えれば実に合計で4つか5つの試験を受け、十数倍の競争率を経て、なんとか念願叶い合格を果たすことが出来ました。

 アメリカ留学中には沢山の貴重な経験し、また多くの素晴らしい出会いに恵まれましたが、今、振り返ると、貧しい苦学生の身であった当時の私にとって、この留学経験は何ものにも代えがたく、その後の人生を決定づけるものになったと思います。

 学ぶことは、人の一生を大きく左右します。人生は長く過酷な旅ですが、若い頃に一生懸命学べば、人生の岐路に立った時、きっと大きな助けとなります。

 青木塾で子供たちに教えるにあたって、私は何よりも学ぶことの真の楽しさ、その深い意味、そしてそれがもたらす恩恵の素晴らしさを伝えたいと思っています。

 勉強は、特にやり始めた当初は、決して楽なものではありません。しかし、順序を違えることなく、基礎から応用へと徐々に学んでいけば、どんな難しいことでも必ず分かるようになります。また、それと共に、学ぶことの本当の楽しさも味わえるようになります。

 私の元で学ぶことによって、一人でも多くの子供達が人生のチャンスを掴むことが出来ることを心から願っています。

 

                      2013年3月  青木敏朗

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