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生き辛い「現代」という時代
現代ほど生きるのが難しい時代はないかも知れません。戦争、地震、環境破壊、感染症、気象変動、雇用不安、経済格差の拡大、人工知能の台頭等々、私たちの日々の生活を脅かしたり、未来に不安を覚えさせる事柄が余りに多く、感受性が鋭い人であればあるほど生きづらさを感じてしまうのも、ある意味当然だと思います。昔のように高等教育が一般化しておらず、情報が得にくかった時代には、そもそも問題の所在を知ることすら難しかったですから、今のように悩むことも少なかったのでしょうが、教育が普及し格段に情報化が進んだ現代では、嫌でも様々なことが目や耳に入ってきます。
若さゆえの傷つきやすさ
人間は年を重ねるにつれ、何か問題が起きても「確か前にも似たような事あったな」と少々のことでは驚かなくなりますが、人生経験も少なく感受性が鋭い若い皆さんはなかなかそうは行かないですから、未来を恐れたり人間不信に陥って心が萎縮し動きが取れなくなってしまうのも無理はありません。今、不登校や引きこもり、自殺が多いのも、そういった社会のあり方が影響を与えているのは否定できないと思います。じゃあ、一体、私たちはどうすれば良いのでしょうか。
この世の命あるものは全て死んで土に還り、新たな命の礎となる
実は今から15年前の2008年4月、私は大切な息子を亡くしてしまいました。余りのショックに現実が受け止められず、まるで自分の精神が崩壊してしまうかのような痛みと苦しみを覚え、錯乱状態に陥って大声で泣き叫ぶことしか出来ませんでした。私の息子が亡くなったことを聞きつけ、かつての教え子や友人たちから自宅に伺いたいとの電話連絡が入りましたが、彼らの顔を見るのが余りにも辛く、家を抜け出し山里にある畑に車を走らせ、そこで一人静かに鍬を手に畑仕事を始めました。
作業の合間にふと手を休めて周囲を見渡すと、足下には植えて間もない小さな野菜の苗が一心になって太陽から届く光を浴びており、辺りには沢山の雑草たちが生い茂り、木漏れ日のさす地面にはバッタや蟻などの虫たちがうごめき、そばを流れる小川には小さな魚や沢ガニが遊び....と、私の周りにはいつもと変わらぬ自然の姿がありました。
そのとき、ふと思ったのです。私も息子もこの自然の一部であり、全ての生き物は生まれては死んでいずれ土に還り、新たな命の礎になると...。そう感じた瞬間、崩壊しかけていた私の心が少しずつ平衡状態を取り戻しはじめ、自らの心が本来あるべきところに戻ってくるのを感じました。
肉体的な死は絶対的な死ではないかも知れない
私が子供の頃、毎年、お盆がやって来ると、家族で一緒に祖先の墓参りをするのが通例でした。若い頃、戦争に行って多くの戦友達の無残で悲劇的な死を見てきた父は、「墓などというものは、ただの石に過ぎない。人は死んだら終わりだ」と、墓参りの度、口癖のように語っていました。近代科学の発展の成果が取り入れられた戦後教育を受けた私は、子供ながらに知らず知らず唯物論的な考え方の影響を受けており、父親の言葉を何の疑いもなく受け入れていました。
数年前に還暦を過ぎた私は、今、古典物理学的な因果律や唯物論的な考え方から解放され、徐々に量子力学的な世界観を持つようになりました。従来の世界観から離れるにつれ、肉体的な死が絶対的な死ではなく、人の魂は肉体が滅んだ後も生き続けると信じるようになりました。では、この世の命とは一体何の為にあるのか。それは魂の鍛錬のためにあるのだと考えています。ならば、生きている限り懸命に生きなければならない、私はそう信じています。
「艱難汝を玉にす」、常に困難に立ち向かうチャレンジャーたれ
他のところでも書いたことがありますが、私の両親は学歴も資力もなかったため、大学に行こうと思っても親からの援助は期待できず、自分でお金を稼いで大学に進む以外に方法はありませんでした。現在の青木塾は、そういう経緯から生まれたわけですが、今、振り返ると、当時、そのような試練が与えられたことは、むしろ恵みであったと思います。
多くの皆さん同様、これまで私の人生には数え切れないほどの困難がありましたが、それらを何とか乗り越えることが出来たのは、自力で学費を稼いで大学を出た経験があったからだと思います。「艱難汝を玉にす」という言葉があります。人生に試練があるからこそ、人は成長することが出来るのだと思います。若い皆さん、是非、そのことを心に留めおいていて下さい。
人はなぜ学ぶのか
最後に人はなぜ学ぶのか、なぜ学んだ方が良いのかについて少し話したいと思います。冒頭にも述べましたが、現代という時代は余りにも変化が激しく、何も知識や技術がなければ、どんどん時代に取り残されてしまいます。もし、そうなってしまったら、私たちはこの過酷で不平等な社会の中で埋没してしまうかも知れません。
はっきり言いますが、私たちが学ぶのは、自身と自らの大切な人を守る為です。但し、この学ぶということは、何も学校の勉強に限定されません。知識に限らず新しいスキルを身につけることは全て学ぶことであると言えます。料理を覚えるのも、畑を耕すのも、衣服を縫うのも、機械を操作するのも、人を助けるのも、とにかく新たにチャレンジすることは全て「学び」と言えます。
「私には自信がない」と言う人もいるかも知れません。出来るか出来ないかは、やってみなければ分かりません。どうぞ失敗を恐れずチャレンジしてみて下さい。そうすれば、きっと新たな自分に出会えるはずです。私はあなたに会ったことはないかも知れませんが、いつもあなたを応援していますよ。