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学校の存在意義を再考する.jpg

 中学入学直後の余りに理不尽な経験 

 「なぜ、学校に行くのか」 私が初めてこの疑問を持ったのは、地元の中学校に入学したばかりの中学1年生の時でした。当時、私が通っていた公立中学は、市内でも荒れの酷い学校の一つとして有名で、入学早々、入ろうとした卓球クラブで先輩達から信じがたいイジメを受けた経験が私の学校不信の元になっているのです。あろうことか、そのクラブに入部を申し込みに行ったら、先輩達に部室にあったリヤカーに乗せられ、学校の裏にあった斜面から落とされ、上から小便をかけられたのです。 勿論、その場ですぐ入部を断ったのは言うまでもありません。入学早々、こんな理不尽な洗礼を受けた私は、一刻も早くその中学を卒業したいと、そんなことばかり考えて3年間を過ごしました。(※中2の頃には、ある3年生の先輩が定期テストが受けたくなかったという理由で職員室に放火し、廊下が煤で真っ黒になっていたという事件にも遭遇しました。母校とはいえ、何とも酷い学校だったものです。)

 

 あれは中学2年生の12月のことでした。それまで暢気に釣りや虫取りばかりに夢中になっていた私も、人並みに将来のことが気になり始め、高校受験を意識し出したのです。中学入学直後の経験から、愚かな先輩のいるような高校には絶対行かないと決意し、一生懸命勉強して真面目で良識のある先輩達が多くいると思われる、当時、地域一番の某公立高校を目指したのです。優秀な生徒が集まる高校は、さぞかし素晴らしいところだろうと期待して入った学校でしたが、その期待も入学後、さほど時間が経ることなく裏切られることになりました。

 何年も使ったノートの内容を黒板に写すだけの英語教師、チャートの説明通りの授業しか出来ない数学教師

 一生懸命勉強して入った高校ですが、入学早々、その期待は無残にも砕かれてしまいました。優秀な生徒が通う高校の先生は、さぞかし優秀で何でも知っているのだろうと思っていましたが、私が受けた英語の教師は何年も使い古したヨレヨレのノートを取り出し、そこに書いている内容をただ黒板に写すだけのポンコツ教師で、数学の教師といったら、いつも「チャートには、こう書いてある」というのが口癖のエセ教師だったのです。「こんな教師の授業を聞いたって、何の勉強にもなりゃしない」と絶望した私は、短波ラジオで「100万人の英語」という番組や在日米軍向けの放送「Far Eest Network」を聴いたりして英語を勉強し、よく授業をサボっては洋画専門の映画館に弁当を持って入り、朝から夕方まで同じ洋画を見て、ノートに台詞を書き出すような英語の勉強の仕方をしていました。(※当時は入れ替えがなく、映画館から出ない限りは何度でも同じ映画を繰り返し見ることが出来たのです。)数学については、教科書に載っている定理を証明したり、数ある公式を自分で導き出したりして勉強し、先生の授業は全く聞きませんでした。あるとき、先生から職員室に来るように呼び出しを受け、「何で授業を聞かないんだ」と言われて、「先生の授業を受けても意味がないからです」と、今だったら思わず赤面してしまうような生意気な返事を返してしまいました。

 どうして地域一の進学校なのに、こんなに学力が低いんだろう

 私の学校不信はこのように自身の経験に端を発しているのですが、塾教師として長い経験を積む中で、新たな学校不信を覚えるようになりました。それは地域の進学校のことです。当の進学校は、これまで度々、前期選抜の競争率が県下で一番高いと新聞に紹介されたくらい優秀な生徒達が集まっている学校なのですが、生徒達はさぞよく勉強するのだろうと思ったら、クラブ活動ばかりに熱心で、その持つ能力から想像すると信じられないくらい学力が低いのです。

 彼らは高校入学時こそ高い学力を持っていますが、学年を重ねる度に学力が低下し、高3になる頃には全国平均に大きく劣る学力しか身についていないのです。ごくたまに東大に合格する生徒がいますが、それは生徒自身が個人として頑張ったからであって、学校の​教育の成果だとは到底思えません。進学校というのは、次世代の社会を担う優秀な人材を育てるのが仕事のはずです。関係者には、その社会的使命をもっと自覚して欲しいと願っています。

 学校の役割とは

 学校の役割は、そこに通う子供達の年齢や個々の学校の社会的位置づけによって当然異なっています。小学校は、子供の社会性を養い、皆と協調して生きることを学ぶ場所だと思います。社会学で使われる言葉に、プライマリーグループ(第一次集団)とセカンダリーグループ(第二次集団)という概念があります。プライマリーグループとは信頼と親しみに基づいた家族のような集団のことをいいます。また、セカンダリーグループというのは、「機能集団」の中に分類され、企業や役所、軍隊などのように、特定の目的や役割を担う集団のことです。どちらかというと学校はセカンダリーグループの中に入りますが、小学校はプライマリーグループとしての要素も併せ持つ場所だと言えます。

 

 中学校は、思春期の時期にある子供達を対象としており、その頃は、ちょうと自我に目覚める時期でもあります。それまで大人の設けたルールに無自覚に従っていた子供達が、自立的にものを考えることを求められるようになり、しばしば、外からの権威を無効化するプロセスを経るため、時として大人に反抗するような行動が見られることもあります。生き方に悩む子供達も少なくないため、良きロールモデルが必要な時期でもあります。

 高校は、当然、セカンダリーグループに分類されるべき場所で、中でも職業高校は社会で求められる実践的なスキルや知識を学ぶ場であります。一方、進学校は将来、知的専門職に就くことを前提としており、高度な論理的思考力の養成する場としての役割を担っています。言うなれば国家の将来を構想し、それを具体的な形に設計出来る人材を養成する場であると言えます。そういう意味で、進学校に通う子供達には高い倫理観と社会的な使命感が求められます。

 もし、進学校が学びの場所ではなくなったら

 高度な知的訓練を受ける場が進学校であるはずですが、残念ながら、現状は必ずしも理想通りではありません。今は昔と違い、教育は学校の独占物ではありませんから、もし、学校以外に知力を訓練する場があるなら、必ずしも学校に行く必要はないと思います。勿論、それは簡単な選択ではありません。強い意志と堅い決意が欠かせません。私は、そういうはっきりとした目的意識を持った若者が学ぶ場として私どもの塾を提供したいと思っています。勿論、そんな若者たちだけではなく、勉強に困っている皆さんが再チャレンジする場所としても役立てていただきたいと考えています。本気で勉強したいと思っている学生の皆さん、是非、青木塾の門を叩いてみて下さい。

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