top of page
dokushoshukan のコピー.jpg

 映像配信技術の進歩と言語能力の衰退

 先の大戦の戦火によって焦土と化した日本が、戦後、経済復興を遂げていく中、テレビが一般家庭に徐々に普及し始め、昭和30年代末には全国における普及率は90パーセントに達しました。これをもって、新聞やラジオに次いで第3の巨大マスメディアが誕生したわけですが、その登場は、その後の日本人の教育や情報の伝達に大きな変化をもたらしました。つまり、活字の時代から映像の時代に変化したわけです。

 当時からよく言われてきたことですが、テレビの登場によって人々が本を読むという習慣が次第に減っていき、それと共に文章をきちんと読めない若者がどんどん増えていきました。それにとどめを刺したのが、スマホやタブレットといった様々な電子機器の登場です。実際に毎日教壇に立ち、生徒相手に授業をしていてくづく感じるのですが、今では満足に母国語を話せない若者が普通になってきています。

 

 一語文で答える若者達

 かつて私が学んだことのある発達心理学によると、人間の子供は生まれて一歳になる頃から徐々に言葉を使い始めます。初めは「ばばば」、「だだだ」など、喃語と呼ばれる子音+母音の連続音からスタートし、しばらくすると「まんま」、「わんわん」、「ブーブー」といった単語だけからなる一語文を話す段階へと移行していきます。この一語文とは、意味のある言語としては最も単純な形態であると言えます。

 

 実は、私が授業の際に子供達に向けて何かの質問を投げかけると、大半の生徒は一語文で返事を返してくるのです。勿論、彼らが本当の赤ちゃんのような発達水準にあるという訳ではありませんが、そこから垣間見えるのは、若者たちの会話によるコミュニケーション能力が著しく劣化しているという現実です。

 何物にも代えがたい活字媒体の持つ力 

 情報化が極端に進んだ現代の世界において、意外に思われるかも知れませんが、最も価値ある情報は活字媒体を通じて獲得されます。映像と活字はそれぞれ得意な分野が異なり、映像は人々の情動に強く影響を与えますが、情報の密度と正確性では到底活字にかないません。少し厚めの本ならば、一冊の本を読むことで人類史全体を俯瞰することも可能ですが、それを映像で表現しようとすると情報密度は極端に低下してしまいます。しかも、仮に映像で知識を得たとしても、それを脳の中で再構成し人々に伝えるためには、どうしても言葉を介してしか伝える事が出来ません。意味ある情報を得、意味ある情報として再発信するには、活字の力を借りざるを得ないのです。そういう意味で、情報化が進んだ結果として人々のコミュニケーション能力が劣化するのだとすれば、実に喜劇的かつ悲劇的なパラドックスであると言えます。

 学歴と学力の乖離

 さて、高度経済成長以降、日本では進学熱が盛んとなり、猫も杓子も大学へと進むようになりましたが、残念ながら現状を見ると、学歴と学力が著しく乖離してしまっているように感じられます。昨今では、大学出が必ずしも十分な知識を持っているとは到底言えず、むしろ現場でたたき上げの教育を受けてきた人の方が、特定の分野に限って言えば、体系的かつ実際的な知識を持っていることの方が多くなってきています。今や「学歴のある者は物知らずで役に立たない」といった笑えない現実すら普通に見られるのです。

 本当の教養や知識を身につけたいなら 

 もし、あなたが本当の意味で十分な知識を持った教養ある人間になろうと思ったら、まず第一に読書家でなければなりません。十分な数の良質な書物を読んでさえいれば、たとえ、どこに行って誰に会おうとも話題に事欠くことはありませんし、仮に起業をしたいと思ったときでも、書物を通じて必要な知識は全て得ることが出来ます。昨今のように技術の進歩が著しい時代では、学校を卒業した程度では到底世の中の動きに対応することは出来ません。極論であることを承知で言えば、本を読まない人はビジネスで成功することはできないと言っても過言ではありません。

 厳しい現実を生き抜く武器としての読書 

 本を読むことで、私たちは現実への対応力を得ることが出来るだけでなく、空間や時間の壁さえ容易に乗り越えることが出来ます。人類発祥の時に戻るどころか、宇宙誕生の瞬間に立ち会うこともできます。また、数十万年先の未来を見通すことすら可能です。このように読書は、現実に対処する能力だけではなく、現実を超越し未来を創造する力すら私たちに与えてくれるのです。

 

 今、私たちを取り巻く現実は非常に複雑化し、平穏な毎日を生きていくことが益々困難になりつつあります。そんな時代だからこそ、私たちは読書へと回帰しなければならない、そう私は考えます。

bottom of page