教育について(一般)
学ぶことで人生は広がる
ただ待っていても人生は変わりません。さあ、勇気を出して一緒に一歩踏み出しましょう。
若い頃は、なかなか学ぶことの意味を実感できないものです。漠然と勉強した方が良いことは分かってはいるものの、今一つその真価が見えてこない。どちらかというと、勉強には楽しいことよりも我慢することが多いようにも見えるし、日常生活の中に埋没している限り、その有用性が伺えるのは、せいぜい何かの試験を受ける時だけに限られているように見えなくもありません。しかし、本当にそうなのでしょうか。
勉強することに、一体どんな意味があるのでしょう。まず言えることは、人生の選択肢が増えることが挙げられます。例えば、いくら医師になりたいと思っても、医学部に進まない限り、その目的が実現する可能性は全くありません。別に医師に限らず、大学に進学して専門の勉強をしなかれば就けない職業は世間にはいくらもあります。
他には、どうでしょうか。人との出会いなんかについても、学ぶことが何らかの影響を与えていることは間違いないでしょう。例えば、自分が何かに興味を持って、その方面の大学に進学したとします。そこには、自分と同じような関心を持っている人間が集まっている可能性が極めて高いと考えられます。運が良ければ、生涯の友人や、あるいは未来の伴侶が見つかるかも知れません。特に学校は、同じ年代の人々が集まるという点において極めて特別な場所です。もし、学校以外にそんな場所を見つけようと思っても、実際、かなり難しいでしょう。
他にも、こんなことが言えるのではないでしょうか。それは人生そのものについての有用性です。私たちは、自分の人生について、あるいは自分が属する周囲の世界について、それぞれが何らかの思いを抱いて毎日生活を送っています。「何で私はこんなことをしているんだろう」、「何で社会はこうなんだろう」、「何で彼らは・・・」、おそらくこういった疑問を一つも感じずに生活を送れる人なんか一人もいないんじゃないかと、私は思います。
そんな時、もし、何の知識もなければ、私たちは答えに窮して、そこに為す術もなく立ちすくむしかありませんが、もし、充分な知識があれば、合理的な答えを得て、どういう行動をすれば、自分が直面している問題から抜け出すことが可能かが分かるはずです。知識というものは、実際、知らず知らずのうちに、その人の人生の様々な場面で、大いに役に立っているのです。
その昔、フランシス・ベーコンという有名な哲学者が、「知は力なり」という有名な言葉を残しましたが、実際、知識は多くのことを可能にしてくれるし、人生を生きる上で、数えきれぬほどのチャンスを私たちに与えてくれます。学ぶことで人生は豊かになり、学ぶことで人生はどんどん広がってゆくのです。
可能性は常にある
自分のことを駄目だなんて思っていませんか
長年、塾の教師をしていて、「能力とは一体何だろう」という疑問が常に頭から離れたことがありません。指導の経験が浅い頃は、単なる頭の回転の速さのように思っていた時期もありますが、教師経験が長くなるにつれ、次第に「そうではないのではないか」という思いが強くなってきました。「能力とは何か」、私はそれを未来を描き、信じる力だと思います。
私の塾にやって来る生徒の皆さんは、どちらかというと勉強で行き詰まって来る人が多いのですが、最初はなかなか勉強が理解出来ずに苦労していても、辛抱強く指導を行い、自分を信じることの大切さを語り続けているうちに、じわじわ力を伸ばし始め、最後には学校でもトップレベルの学力を身に付けるようになる人が、それこそ毎年のように出ています。こういったことを度々経験すると、能力とは単に頭の回転の速さだなどとは、言い切れなくなって来ます。実際、頭の回転の速さ自体も、時間の経過と共に当初とは比べられないほど速くなることも多いのです。
人間とは、良きにつけ悪しきにつけ、極めて思い込みの強い動物です。その証拠に、多くの人間は先入観に左右され易く、商業文化や流行にもすぐ影響を受けてしまいます。注意しないと、簡単に差別意識などを持ってしまったりもするものです。そんな生き物である人間のことですから、ちょっとした人からのマイナス評価や、テストにおける失敗の経験が、自分自身に対する自信の喪失や、特定の科目に対する苦手意識に転化してしまいやすいと言えます。思い込みの強い人間同士の相互作用の中から生まれたこういった意識は、考えてみれば、根拠のないものである可能性が極めて高いと思うのです。大切なことは、まずこういった自己認識に関する問題点をしっかり理解することではないでしょうか。
確かに、個々の人間の間に能力の違いはあると思います。どれほど一生懸命練習したって、全員がオリンピック選手のように速く走れないことは事実だし、全員がノーベル賞を取るほど高度な能力を獲得できないことも確かでしょう。しかし、これらはいずれも極限的なレベルでの話です。中学や高校の勉強程度のことであれば、経験上、訓練次第でほとんどの子供達が相当なレベルの力を付けることが可能なのは間違いありません。
子供達に是非、伝えておきたいことがあります。それは、可能性は常にあるということです。自らその可能性を閉ざしてしまうことだけは決してしないで欲しいと思います。あなただったら、きっと出来るはずです。それを忘れないで。
繰り返しは学問の母
「繰り返しは学問の母」という西洋のことわざがあります。東洋にも、「読書百遍、意自ずから通ず」、「韋編三絶(いへんさんぜつ)」といった同じような内容の言葉がありますが、いずれも学ぶ上で繰り返すことが、いかに大切かを語っていることは言うまでもありません。
今春、こんなことがありました。新学期が始まって、学校で教科書の購入をする時期のことです。塾の高校生たちが、たまたま学校で買ったテキストを持って塾にやって来たのですが、その本の数の多さを見て本当に驚いてしまいました。何と英語だけでも10冊近くあったのです。一体、学校では何をどう考えて、これだけの数のテキストを子供達に与えたのか、疑問に思えてなりませんでした。これだけの数のテキストを、果たして彼らがやり切れるものか、それ自体疑問ですが、仮にやり通せたとしても、実際、これだけの数のテキストを繰り返して学ぶことなど到底不可能だろうと思ったからです。
普通、あるテキストを一度や二度やったって学力が身に付くものではありません。何度も何度も繰り返しやることで、初めて知識が定着し、それを使いこなす力が付くものです。私たちが高校生の頃、某先輩は、ある数学の参考書を21回繰り返しただの、同級生の何某(なにがし)が日本史の教科書を、それこそ綴じがすり切れるまで繰り返し、とうとう新しい教科書を買っただのといった話が、それこそ周りに一杯飛び交っていました。私も、それを当然のように考え、700ページ近くもある英文法の参考書を20回近く繰り返し読んだ覚えがあります。お陰で英文法について、とても詳しくなり、その後の英語の勉強にも大いに役立ち、結果的に奨学金をもらってアメリカで勉強させてもらうチャンスまで戴くことになりました。例外的なケースも当然あるでしょうが、勉強とは本来、そういうものだと思うのです。
「先生、どのテキストをやったらいいですか」と、よく塾の高校生たちに尋ねられることがありますが、「まずは授業で使ったテキストを繰り返してごらん。それを何度かやって、もうこれ以上そこから学ぶことはないと思えたら、それから他のテキストをやったら良いよ」と、大抵の場合、そう答えています。実際、そうすることで、彼らは難しい大学にもきちんと合格してゆくのです。
現代の社会は、極めて大量の情報が日常的に生活の中に溢れています。ある段階では、そういった大量の情報をどう処理すればよいかといった方法論をきちっと身に付けることも必要になってきますが、少なくとも中学生や高校生レベルの学習の段階では、多数のテキストをやるよりも、良質な少数のテキストを選んで、それを繰り返し学ぶ方が、結果的には確かな学力につながると確信しています。「繰り返しは学問の母」、このことわざは今でも充分通用するし、これからも通用し続けるでしょう。
生きている実感が感じられますか
「繰り返しは学問の母」という西洋のことわざがあります。東洋にも、「読書百遍、意自ずから通ず」、「韋編三絶(いへんさんぜつ)」といった同じような内容の言葉がありますが、いずれも学ぶ上で繰り返すことが、いかに大切かを語っていることは言うまでもありません。
今春、こんなことがありました。新学期が始まって、学校で教科書の購入をする時期のことです。塾の高校生たちが、たまたま学校で買ったテキストを持って塾にやって来たのですが、その本の数の多さを見て本当に驚いてしまいました。何と英語だけでも10冊近くあったのです。一体、学校では何をどう考えて、これだけの数のテキストを子供達に与えたのか、疑問に思えてなりませんでした。これだけの数のテキストを、果たして彼らがやり切れるものか、それ自体疑問ですが、仮にやり通せたとしても、実際、これだけの数のテキストを繰り返して学ぶことなど到底不可能だろうと思ったからです。
普通、あるテキストを一度や二度やったって学力が身に付くものではありません。何度も何度も繰り返しやることで、初めて知識が定着し、それを使いこなす力が付くものです。私たちが高校生の頃、某先輩は、ある数学の参考書を21回繰り返しただの、同級生の何某(なにがし)が日本史の教科書を、それこそ綴じがすり切れるまで繰り返し、とうとう新しい教科書を買っただのといった話が、それこそ周りに一杯飛び交っていました。私も、それを当然のように考え、700ページ近くもある英文法の参考書を20回近く繰り返し読んだ覚えがあります。お陰で英文法について、とても詳しくなり、その後の英語の勉強にも大いに役立ち、結果的に奨学金をもらってアメリカで勉強させてもらうチャンスまで戴くことになりました。例外的なケースも当然あるでしょうが、勉強とは本来、そういうものだと思うのです。
「先生、どのテキストをやったらいいですか」と、よく塾の高校生たちに尋ねられることがありますが、「まずは授業で使ったテキストを繰り返してごらん。それを何度かやって、もうこれ以上そこから学ぶことはないと思えたら、それから他のテキストをやったら良いよ」と、大抵の場合、そう答えています。実際、そうすることで、彼らは難しい大学にもきちんと合格してゆくのです。
現代の社会は、極めて大量の情報が日常的に生活の中に溢れています。ある段階では、そういった大量の情報をどう処理すればよいかといった方法論をきちっと身に付けることも必要になってきますが、少なくとも中学生や高校生レベルの学習の段階では、多数のテキストをやるよりも、良質な少数のテキストを選んで、それを繰り返し学ぶ方が、結果的には確かな学力につながると確信しています。「繰り返しは学問の母」、このことわざは今でも充分通用するし、これからも通用し続けるでしょう。
読書こそ学力の基盤
豊富な読書経験が高い学力の基盤となる
国語力の不足は、当然のごとく、学習する際に大きな障害になります。読み書きする力が十分でなければ、問題文を読んでも、その意味や意図を正確に読み取ることは出来ないでしょうし、大体、物を考えること自体が言葉の操作によって成り立っているわけですから、国語力が十分でなければ物を考えることに支障が出てくるのは当たり前のことだと言えます。長い指導経験から判断して、実際、学習能力の高い子供達は、例外なく言語を操作する能力が高いように思われます。では、学力向上の鍵となる、その国語力を高めるにはどうすればよいのでしょうか。
国語力向上の秘訣と言えば、やはり基本は本を読むということにつきます。時間がかかるように思えても、結果的にはそれが一番の近道だと思います。但し、一冊や二冊の本を読んだからって、すぐに国語力がつくわけではありません。目立った変化が現れるには、少なくとも3桁、つまり百冊単位の読書が必要だと言われています。
ただ、この3桁という数字は、「読まなきゃいけない」といった義務感によってはなかなか達成できる数字ではないかも知れません。読むことが楽しいと思えて、初めて達成できる数字と言えるのではないでしょうか。「あ~あ、一冊でも大変なのに、3桁なんてとんでもないよ」って言う声が聞こえてきそうですが、大丈夫、心配は要りません。本は一度、読む楽しみを覚えてしまえば、どんどん読みたくなって、知らず知らず読んだ本の数は信じられないスピードで増えていくものですから。
では、楽しく読書をするには、一体どうすれば良いのでしょうか。基本は、自分が面白いと思える本を選ぶことです。いくら評価が高い本でも、自分で読んでみて面白いと思える本でなければ、読み通すこと自体大変だし、かりに読み通せたとしても、身に付くものは何もないかも知れません。 今の自分に一番関心があること。そんなテーマに関わる本こそが、読んでいて楽しい本だと言えますね。
さて、楽しい読書を続けることで、読書がいつのまにか習慣になってきたと思えたら、次はそろそろ読書の幅を広げる時期だと言えます。その頃には、多分、活字を読むことが以前のように苦痛ではなくなってきているはずですから、テーマをどんどん広げて色んな本に挑戦してみたらどうでしょう。政治、経済、科学、芸術、等々..... この世界は、興味深いことが一杯満ち溢れています。そんな世界にあっちこっち首をつっこんでいる間に、自分でも知らないうちに、きっと人も驚くような物知りになっていること請け合いです。多分、その頃には、長い文を読んだり書いたりすることも、そんなに苦痛でなくなっていることは間違いないでしょうね。
(お母さん方へ)
小さなお子さんが読書が好きになるかどうかは、やはりお母さんの影響によるところが大きいと思います。お子さんが幼いうちは、読み聞かせなどを通じて、物語の世界の面白さをたっぷり味合わせてやって下さい。じゃあ、ある程度、子供さんが大きい場合はどうしたら良いのでしょうか。それには、まず、お母さんやお父さんが本を読むことを楽しまれたら良いのではないでしょうか。「読みなさい」では、子供達は決して本を読みはしません。でも、大人達が楽しそうに本を読んでいる姿を見れば、意外と「自分も読もうかな」って思ってくれるものなんだと思います。読書好きの家族って、素敵じゃないでしょうか。



